海外住み女の頭の中

好きなヒト・コト・モノだけを自分のために書く

変化

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私は理不尽なことにNOと言うことを大切にしている。

私の意見は自分自身を、自分の周りを、社会を、そして世界をより良くしていくためのものだと信じている。


意見を言うことをやめたら、
恐らく精神衛生上良くないとわかっている。


しかしながら、
私の意見を遮り、
口を塞ごうと躍起になる人がときどき現れる。


それを
同調圧力という。
言論統制という。


本人はそれをわかった上でやっているのかは知らない。

わかっていないのなら、

「自分は実は洗脳されているのではないか?」

と疑ってみてほしい。


「本当に自分の頭で考えて発言しているか。
 誰かに言わされている言葉ではないか。」

と自分自身に問いかけてみてほしい。


そういう人たちの存在は
残念ながら
私にとっては重要ではない。


その人たちの顔色をうかがって、
自分が意見を言うことをやめるということにはならない。


むしろ、勝手に

「自分が否定されている」

と勘違いをし、
攻撃してしまう人なのだと思っている。


もっと言うと、
同調圧力を求め、
言論統制をしたい人は

「変化を恐れている人」

ではないかと最近気がついた。



私は、普段は割とボーッとしながら生きている。

人は人、自分は自分という線引きをしている。

他人に介入しないし
自分も介入されたくない。


しかしながら
誰かの命がかかっているときは、
それに対して怒る。

自分の意見を言う。


その誰かの命が
自分にとって大切な人であるなら尚のこと。


ただそれだけ。


言論の自由を奪おうとする人は
大切な人の命がどうなっても構わないと思っている人ではないか?
と思うようになった。


人の命を軽視している人は
自分の体裁やポジション、利益を守ることだけに躍起になっている。


私は今後、命を軽視している人とは
残念ながら付き合っていくことはしない。


過去に仲が良かった人だとしても
わかりあえることは恐らくないのかもしれない。


だから命を軽視している人たちからは
自分からそっと離れることにした。


距離を置いたほうがお互いの為だ。



私は、人を変えることはできないし、しない。
そんな権利はない。


対話をして
背中を押すことはできる。


自分が動くことによって
何らかの影響を受ける人は
一定数はいるのだろうとは思う。


良い影響の連鎖を目の当たりにすることは去年からときどきあった。


例えば
私が好きなことを好き、
嫌いなことを嫌いとはっきり言ったり、
楽しいことだけをするようにしたことで、
身近な人も本音を自然と言うようになった。

「自分の好き、楽しい」を追求する人も増えた。

本音を隠すのをやめた人もいる。

自分もそのひとりだ。


それでも
人を変えることはできないし、しない。


結局はその人次第だから。



私は誰かに嫌われることも、
バカにされることも、
否定されることも、
もう恐れない。



自分は自分。

自分の意見を大切にする。

自分の考えが間違っていれば謝罪し、訂正する。

恥ずかしいことではない。

シンプルなことだ。



私は変化を恐れず
変化に向き合う人でありたい。

変化を敢えて楽しむ人でありたい。



簡単なことではないのかもしれないけれど。



気持ち次第なのだ。