海外住み女の頭の中

好きなヒト・コト・モノだけを自分のために書く

招かれざる客

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苦手な人が家に来るのは落ち着かない。

追い詰められる気持ちになるから。

この数年間、知らぬ間に追い詰められてしまったのだと思った。

良き妻を、友達を演じて頑張ってしまった。

だから、周りには勘違いする人が増えた。

それでより一層追い詰められた。

もう頑張る必要はないのだ。



今日、久しぶりに苦手な人が家に来るとわかって、家を出た。

夫は、私が彼が苦手だとわかっているのに代替案を持たない。

あくまでも私が我慢して受け入れる側なのだ。


その夫ルールにはもう懲り懲りだ。


「終わったら携帯に電話して」

と夫に告げ
家を出て
川沿いを歩いた。

本格的な夏の太陽の日差しが暑かった。

向日葵畑の向日葵たちは満開のピークを越え
多くは枯れ始めていたが、少しだけ時期をずらして咲く小ぶりの向日葵は、これから咲く段階に入っていた。


誰も邪魔する者はいない。


しかし心は罪悪感も感じている。

なぜか?

だって彼は私がいないとわかったらがっかりするかもしれないから。

だけど、笑って何もなかったかのように振る舞うことはもうこれ以上できないと思った。

無理して笑うことをやめた。

会いたくないときは会わない。

それで相手がどう思うとも、
それは彼自身の課題。

承認要求の塊の彼に会えば、
思いきりエネルギーを奪われる。

ロックダウンを乗り越えたイタリアで

「かわいそうな彼」
「頑張った彼」
「人気者の彼(彼目線)」
「未来への悲観」

を押し付けられ、

「もっと褒めて!」

「もっと心配して!」

と求められるのはもう御免。

これ以上、エネルギーを奪われてたまるものか。


私の本能が、

「それを避けたい。
 会いたくない。」

と言った。


私の心の声は私自身が聴いてあげる。

「わかったよ。」

と自分の背中をさすって安心させる。


今はただ、川の流れる音を聴こう。

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肩書に溺れない人

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2006年にタイ語語学学校を修了し、ビザ取りのためにマレーシアのペナン島に行ったあと、タイのチェンマイへ行った。

チェンマイで肩書について考察したことを最近思い出した。

あのときは、見えない未来に不安になっていた。

肩書がない自分に自信がなかった。

そしてその気持ちについて、手帳に書いた。

その手帳は恐らくタイからイタリアへ移住するときに処分したので持っていない。


手帳に書いた内容は、

「どうして人は肩書がほしいのか」

といったことだ。


「肩書がないと、他人に対して自己紹介をし辛い」

「私はこういうものですと言えない」

と自分で回答したように記憶している。


あのとき、私は、肩書が欲しかった。

タイ語の語学学校を終え、学生ではなくなった。

就職活動を始める前で、
異国の地で働き先が見つかるのか多少なりとも不安があった。

肩書がない自分は、どこにも所属していない、
宙ぶらりんな存在のように感じていた。


「自分は何者です」

と言いたかった。

示したかった。


その後、バンコクへ戻り就職活動をして、ドイツの企業に採用され、肩書を得た。


それからは肩書について特に考えなくなった。

当時は会社の名刺を出会った人に渡すことに喜びを感じていた。

今は特にそういう気持ちがないので、名刺も作っていない。

あのときは、肩書を得ることで、ようやく社会人の仲間入りができた気がした。


肩書は、他人がいて初めて意識するものだ。

他人を意識しなければ
肩書で自分を武装する必要は本当はないのかもしれない。


今はどうだろう。


誰かの妻という肩書がまだあるが、固執しない。
国や宗教に管理されるための結婚制度に少し疑問を持っている。


翻訳家という肩書もあるが、それだけに固執しない。

最近は「なにか」に限定しない活動家活動も並行して始めた。

しかし活動家ですとどこにも宣言はしていないし、金銭のやり取りもない。

勝手にライフワークとしてその時々に関心を持っている社会問題や事柄について発言する、とざっくりしたもの。


私は興味が移ろいやすい人間で、明日何に対して興味を抱いているか正直自分でもわからない。

「あ、今度はそれ?」

と、時々自分にビックリさせられる。


だから「これ」って決めないほうが良くて
敢えて、余裕をもたせておく。


肩書という字は今これを書いていて思ったけど、
「肩に書く」んだね。

敢えて語源は調べないけど、
肩は何かを背負いやすいから、重荷とか覚悟、のような意味合いがあるのかもしれない。

しかし、本当は肩書に縛られなくても良いのではないか、と最近思っている。

肩書がなくて良いと声高に訴えたいわけではなく、

「いつだって何にでもなれる。
 好きなときに何をしてもいいんじゃないの?」

という意味で。


例えば先生だけどバンドで歌うのが好き、とか、
医者だけど絵も描く、とか
色々な肩書がある人に自然と惹かれる。

好きを追求していて、自由でいいなと。


そしてその肩書の間を制限なく移動したり、
アップデートしたりする姿勢そのものが良い。


肩書が

「今は何だかこれにハマってます」

みたいな気軽なものであれば
過去の自分や
取得した資格に固執しないで生きていけるのだろう。


肩書が何であれ、
私は私だから。

内側と外側のエネルギー

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自分の外側にエネルギーを求めてしまうのは
自分の置かれている状況や、生活環境に問題があるのかもしれない。


このことに気がついたのはコロナ禍に入ってからだ。

コロナ禍の前はとにかく外を歩き回り
時間を見つけては旅をしていた。


楽しいことが好き、行ったことがない場所にできるだけ多く訪れたい、と思って休みなく動いていた。


しかし、よくよく考えてみると、爆発的に自分のエネルギーが外に向かうときは、自分の内面や置かれている環境に何らかの不満やストレスがあり、そこから逃れるために行動していたように思う。

現実逃避とも言える。


例えばバンコクでOLをしていたときは、仕事のストレスもあり、平日の夜でも出歩き、週末になると海に行くなどして小旅行を楽しんだ。

3連休以上になればタイ周辺の近隣諸国に旅に出た。

1週間以上の休みには、トルコやフランス、エジプトなどタイから少し遠い国に行った。


旅は素晴らしいし、大好きだ。
旅人である私は、これからもこの思いは変わらないだろう。


しかしその一方で、外に向かう爆発的な行動力にはストレス発散や現実逃避の側面があったのも否定できない。


だから

「どこかに行きたい!」
「動けないと嫌だ!」
「誰かに会いたい!」

と自分の外側にエネルギーを求めてしまうときは、
今自分が置かれている状況に不満がないか、
あるとすれば何が不満で、何に対して違和感を感じているのかを探るのも良いかもしれない。


コロナで動きが封じこまれたときに
ストレスを感じた人と、
そうでない人がいたと思う。

私は後者だった。


楽しい目的があって人と会うのは好きだが、
元々グループや必要以上に群れることは好きではない。

ひとり遊びが得意だ。

ずっとひとりというわけではなく、
何だかんだ言って、オンラインで毎日人と会話をしている。

必要なときに、話したいと思ったトピックについて人と話せれば満足だ。



夫と別居をするのに隣に引っ越してから、久しぶりに静かな自然の中でひとりの時間が取れている。

タイに住んでいたとき以来のひとり暮らしは実に6年ぶり。

この開放感はたまらない。


ただもうすぐ旅行者が来るので
今は新居を探している。


庭付きの生活に味をしめてしまったので、庭付きのアグリツーリズモや古い家を視野に入れている。


最近の趣味は「家探し」と言っても良い。


しかし、私と同じことを考えている人は多いようだ。

普段大都市やアパートに住む人が、バカンスの時期にプールや庭付きの家に住むことを目論んでいると見える。

こういった家は入居者がすぐに決まってしまうので争奪戦だ。


そんなことを考えていたら
先日、色々見た中で1番気に入った家のオーナーから連絡が来た。


アパート貸出しの掲載がされたその2時間後にオーナーに連絡を取ったので、私が一番乗りだったのかもしれない。


その家にはまだ住人がいるので、来週以降に訪問可能な日を決めてもらい、再度連絡してもらうことになった。


何事も期待しすぎるときっといけないので
期待しすぎず、気長に待とうと思う。



話がそれたが、ストレスには原因がある。
だからその原因を少しでも取り除くよう
自分自身が行動するしかない。


恐らく専門家や歴史が伝えているように、
秋か冬かはわからないけど
コロナの第ニ波、第三波はやってくるのだろう。


もし「動けないこと」に対してストレスを感じる人がいるとするならば、自分の置かれている状況を今のうちに見つめて、自分自身で変えていくしかない。


自分を内観し、
次に動けなくなっても快適に過ごせるように
今から備えておくのも良いのかもしれない。

完璧主義と評価、言葉のパズル

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完璧を求められる翻訳の仕事。

翻訳者あるあるだと思うが、どれだけ誠実に仕事をしても、好き嫌いで判断されたり、重箱の隅をつつくような指摘をされてしまうことがある。

ときどき、正直なところ

「文句を言うなら自分で訳したらいいのに」

と考えることもある。

もちろんクライアントには言わない。


ある翻訳者が、

「プラスな面ではなくマイナスな面ばかり取り上げられて精神的に疲弊する。報われない仕事。」

といっていた。

気持ちはよくわかる。


例えば1万語のうち、9,999語の翻訳が正しかったとしても、たった1語の誤訳やタイプミスがあっただけで、そこだけ取り上げられて責められる。

その場合、9,999語について褒められることはない。
完璧であることが当たり前なのだ。

もちろん、誤訳やタイプミスはないに越したことはないのだが、それらを避けるには幾重のチェック体制を設けることが必要不可欠。

ネイティブだって、ベテランのプロだってなんだって間違えるときは間違える。


だから誰でも間違えるのが当たり前、という前提で物事を進めていかなければならない。


幾重のチェック体制を敷くとなると、システム構築、人件費、そして時間がかかる。


そういったことを一切無視して、
安く、早く、完璧な仕事を求めるクライアントが一定数存在する。

とてもやるせない。



私は幸いなことに、これまで仕事に対してネガティブな評価はあまり多く頂いていないが、それでもときどき遭遇することがある。


そんなときには多少なりともチクッとする。

反省はするし、精進しようとは思うけど、
やはり最終的には以下のような答えに辿り着く。


「文句があるなら、次回から他の方にご依頼ください」

もちろん、直接相手に言うことはしない。


結局、人の心が疲弊してしまうと、
これ以上対処ができなくなってしまう。


「楽しい」

「嬉しい」

「役に立ってよかった」

「ありがとう」

といったポジティブな気持ちがなければ、
お互い気持ち良く仕事は続けられない。


もしネガティブな気持ちが勝ったなら、
その先は、

「もういっそのことやめようかな」

である。


そんなことを考えていたら、
数年に渡りお仕事を頂いているゲームアプリディベロッパーであるクライアントから

「前回の作品の翻訳の評判が良かったので、また次回作の翻訳もお願いしたい」

と連絡が来た。


私は

「是非宜しくお願いします」

と伝えた。


翻訳内容は長編謎解き物語。
このクライアントの翻訳を担当するのは3作目。

数カ月から半年に及ぶ、翻訳マラソンが始まる。


翻訳は一文ずつ向き合い、言葉を探し、言葉をパチパチと当てはめていく仕事。

それはまるで、パズルゲームのようだ。


出来上がった作品の翻訳に対する評価は、正直なところ褒められれば嬉しい反面、批判されればチクッと痛みを覚える。


これは翻訳者だけではなく、作家やアーティスト、すべての業種の人たちが多かれ少なかれ直面することだろう。

他人から評価されるのは、時に嬉しく、時に疲れる。


対処法は

「他人の評価に過剰に反応しない」

だろうな。


より良くするために、少しだけうまくまわる仕組みを構築する。

自分の負担を軽くするために、次回作の翻訳マラソンにはアシスタントを雇う予定だ。


そして私自身は、
仕事を得ている状況に感謝し、
他人の評価に一喜一憂することなく、
淡々と言葉のパズルに向き合っていけば良いのだろう。

ザワザワの正体

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急に焦りというかザワザワした気持ちに駆られた。
この焦りはどこから来るのだろう。

わからないが、膿だらけのニュースに日々振り回されていて、疲れがたまってきたのかもしれない。

ザワザワした気持ちになっているときは、
自分の呼吸が浅くなっていることに気がつく。


1, 2, 3, 4... とゆっくり数えながら息を吸い込み、お腹を膨らませる。

1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8... とゆっくり数え、お腹をしぼませながら息を吐く。

呼吸をしながらお腹を膨らませ、へこませることに意識を集中させる。

すると、自然と意識を自分の中心に向けることができる。

自分の軸を感じれば、気持ちが少し落ち着く。



もう一つ身体の不調サインがある。
ストレスを感じているときは右側の腰が重くなる。

呼吸が浅くなり、酸素がうまく取り込めていないと、体全体に酸素が行き渡っていない気がする。

意識して、取り込んだ酸素を腰や背中まで循環させるようにする。

身体は心と繋がっていて、正直だ。


意識を研ぎ澄ませると、
頭の中の雑音は消え、
代わりに鳥のさえずりや虫の鳴き声が聴こえてくる。



久しぶりに海がみたい。

本当は3月12日の誕生日は、マルケ州のビーチに行って過ごす予定だった。

しかし3月10日からイタリアはロックダウンに入ってしまったので、それが叶わなかった。

ロックダウン中は不思議と出歩きたい気持ちがなく、家の周りで自然の中に新たな発見をして満足していた。

でもここに来て、海に呼ばれ始めた。

泳げなくてもいいから、海沿いをずっと歩きたい。

新鮮な海鮮料理を食べたい。

しかし、ペルージャのあるウンブリア州はイタリアで唯一海に面していない。

トラシメノ湖はあるが。


ザワザワとした焦りと同時に、
昨日鍵が真っ二つに折れた。
鍵の先端部分は鍵穴に入ってしまい取れない。

残り半分の鍵を差し込めば、
内側から鍵は閉められる。


また物が壊れた。

台所のシンクのパイプも数週間前から何かが詰まっていて水はけが悪い。
パイプクリーナーも何度か試し、ゴムも試したがだめだった。
オーナーも強力なパイプクリーナーで試してくれたけど、ビクともしなかった。

鍵穴もパイプも、業者を呼ぶしかない。


物が立て続けに壊れることが時々ある。
3月は家電製品が立て続けに壊れた。

車、パソコン、イヤホンが壊れ、何も触っていないのに突然ブレーカーが落ちたりもした。


「何が言いたいの?」

自分自身に問いかけるけど、そのときはまだわからなかった。


翌朝、立て続けに4人の友達からメッセージが届いた。

ひとりは、ペルージャに住む日本人の友達。
私が前回の記事に貼った写真の花、Love-in-a-mist(霧の中の愛)の名前から思い出したことがあったらしい。
日本語名はクロタネソウと言う。

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ちなみに今wikiを見たら、Devil-in-a-bushとも呼ばれるらしい。
ちょっとワクワクする響きだ。

              • -

Nigella is a genus of 18 species[1] of annual plants in the family Ranunculaceae, native to Southern Europe, North Africa, South Asia, Southwest Asia and Middle East. Common names applied to members of this genus are nigella, devil-in-a-bush or love-in-a-mist.

              • -

(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Nigella)


私はなぜ、霧で数えられないのに、In the mistではなくIn a mistと表現されているのか、についてときどき考えている。

霧は、1霧、2霧と数えられるものではないのにもかかわらず、敢えて'a' なのは何故か。

1つの粒子の中(In a particle)だったら、イメージができる。

しかし、In a mistとしたのは、霧を集合体の1つと考えたのではないか。

粒子が集まってできた集合体。

そのある集合体の霧の中に愛は存在する。
けれど、どの霧にも愛があるわけではない。
「ある」霧の中においては、ということだ。

愛の深さ、愛情のあるなしは、同じではない。

人による。

集合体になるには、制限をかける。
枠があってはじめて、数えられる存在になる。



二人目はパリに住むイタリア人の友達。

「あなたの話を友達にした。
田舎で隔離しているあなたのことをいつも以上に何度か考えた。
隔離中のパリより」
(彼女の思考と文章は文学的すぎてときどき良くわからない笑)。


三人目は、ペルージャに住むイタリア人の友達。

「自然の中でアルツハイマーの叔母と過ごしている。以前学んだオルトテラピア(農業セラピー、アグリセラピー)を試した。
最近ペルージャのチェントロ(市街地)に人が多すぎで心配。みんな油断しすぎ。
あと前に一緒に作った味噌はもう食べていいの?」


最後の四人目は、ペルージャに住むドイツ人の友達。

「前に一緒に作った味噌はもう食べてもいいの?」


面白いなあ。

味噌について聞いてきた人が二人いた。
自然や田舎について話す人もいた。
集合体や枠、愛についても考察した。


「何かがシンクロしているのだろうな」

と思ってそのままメッセージを閉じた。


私はすぐに返事をしないことのほうが多い。
反射的にするときもある。

しかし基本は気が向いたら、にしている。



今「ペスト」を読んでいる。
文体がやや古風なのと訳書のため、ところどころ違和感があり、スムーズに読むことができずやっと半分読み終えた。

私は気に入った本は1日で読んでしまうのだが、
訳書は読むスピードが遅くなることがある。

私も翻訳者だから、訳すことの難しさは重々承知しているので、訳にケチをつけたいわけではない。


最近は本を読む気になれない状況が2ヶ月続いていた。

ニュースを追い、発信に力を注いでいたから、自分の中に本から新しい情報を受け取るスペースがなかった。

でも昨日あたりから、木陰やベッドの中で本を読めるようになってきた。


今朝も外の椅子に座ってページを開いた。

「5月のブローニュの森と女騎士、馬、咲いている花々」

について記述があり、メモを取った。

登場人物たちが、この記述に適切な形容詞などの表現を探しているシーンだ。

ペストで人々は精神的にも肉体的にも疲弊していたが、そんな状況においても、言語表現についてああでもないこうでもないと考察し、適切な言葉や表現を探しているシーンには、惹かれるものがあった。

何に惹かれているのか、については具体的にはわからない。

けれど私も翻訳するときは適切な言葉を探すから、その状況とリンクしたのかもしれない。


パリのブローニュの森は、パリに住む友達からのメッセージにも繋がった。

少し前、日本がコロナ禍に入った辺りは、
ジャンヌ・ダルクの絵が頭にチラついていた。

フランスに呼ばれているのだろうか。


最近ツイッターでフランスやスペインに住む人と繋がることが多い。

私はいつか南フランスか南スペインに住んでみたいなと思っている。

多様性のあるマルタも住みたいけど、
食べ物をイタリアに依存している国なので考えが変わった。

今後は自給自足をしている国が鍵となるだろう。



ところで
ザワザワの理由はなんとなく掴めてきた。

イムリミットだ。

今借りているアパートは実は旅行者のためのリゾート。

ロックダウンが解除され国境が開かれたら、例年通り旅行者がヴァカンスに来るだろう。

私の住むアグリツーリズモにはプールがあるし、
夏場は北ヨーロッパから家族連れの旅行者がひっきりなしにやってくる。

オーナーは毎年このヴァカンス期間の収入にかけている。

オーナーはお金のことで頭がいっぱいのようで、
いつもお金の不安を口にしている。

その人自身の捉え方だから関与しないけれど、
お金に振り回されて生きるのは精神的に疲れるだろう。


毎年夏になると、わざわざ遠くから車で乗り付けてくるヨーロピアン達に対して、

「こんな田舎に来て楽しいのかな?」

と密かに思っていた。

しかし何もないからこそ旅行者にとってはパラダイスなのだと今回のコロナでわかった。

もちろん、車を走らせればさまざまな観光地に行ける。
自然以外にも見所はたくさんある。


とにかくそういうわけで、
このままいくと、今のアパートを来月には追い出されてしまう可能性がある。

というかそれを最初から承知の上で借りている。


一昨日オーナーと話したときに、来月以降のことは今月末にまた様子を見て話そうと言われた。

旅行者の予約状況とイタリアの感染状況を注視する必要がある。

イタリア国内のみならず、他国から旅行者を受け入れるとなると、宿の毎回の消毒も大変だろう。


私はいずれ他の場所に行きたいという気持ちはあるが、混乱している今はここに留まるべきだと思っている。

外的な理由で動くか動かないかを決められることが嫌だ。

だからタイムリミットに心がザワついているのだとわかった。


こんなとき、どう構えるか。


きっとあれこれ考えても仕方がない。

未来のことを考えすぎても、すぐには変えられないし動けない。

もちろん、理想はもっていたい。


今はただ、精一杯「今」を生きることに集中するしかないのだろう。


1日たったらザワザワがおさまった。


今は満開のジャスミンの香りを楽しみながら
深呼吸をしよう。


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Art is to say

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(2020年5月 Love-in-a-mist)

2013-15年にフィレンツェでアート留学をしていたときに、サンタマリアノヴェッラ教会の向かいにあるノヴェチェント美術館でジュゼッペ・キアリの'Art is to say' という作品を見た。


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(http://www.museonovecento.it/en/collezioni/art-is-to-say/)

シンプルに、紙に炭と筆で言葉を書いただけの作品だが、ずっと頭の中に残っていた。


'Art is to say.'

「アートとは発言すること」



日本は今、コロナ禍において、ずっと見て見ぬふりをして放っておいた膿が一気にあちこちで噴き出している。

現政権がもたらすニュースは日々目まぐるしく変わる。
毎日新たな議題が与えられ、
ついていくのがやっとだ。

ここ2ヶ月はもうイタリアのニュースをほとんど追わずに、日本のニュースを追っている。

なぜかというと
異常事態だからだ。

他の海外在住の仲間も日本が心配で見守り、ときに怒り、ときに呆れながら意見をしている。

一人ひとりが声をあげることは大切だ。

なぜなら、政治は私たちの生活と直結しているからだ。

日本では間違いなく大きなうねりが起きている。

内外から人々の声が徐々に集まり、大きくなっている実感がある。


意見を言わないとされる日本人は
今やっと、生まれ変わろうとしているのだ。

殻を破り、脱皮をしている状態。


それを現在進行形で見て、経験することは
ある意味、喜ぶべきことだ。


思っていることは後回しにせず
今すぐ小出しに発言することをおすすめする。

なぜかというと、その旬の時期が過ぎると
「言わなかった後悔」が生まれる。

だから発言は時間をおかず
「今、ここで」対処することが大切。

もちろんタイミングは任せるが
できるだけ早いほうが良い。

時間を置くと面倒になり、やがて忘れてしまい、
結局何も言わないまま自分の中に飲み込んでしまった言葉が蓄積される。


その小さく飲み込んでしまった声は、
やがて膨れ上がる。

自分を過去に縛りつけたり、
我慢の限界で爆発したり
ときには心を蝕んだりすることもある。


人間の悩みは100%人間関係から生じるとアドラーは言った。

経験から考えると
当たっている。


嫌われるのが怖い。

笑われたら恥ずかしい。

バカにされるのが嫌だ。


そういう方は騙されたと思って、
アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読んでみてほしい。

私はこの本で人生観が大きく変わった。

小さな頃から抱えていた社会や人間関係に対する違和感を解消することができた。

このブログの最初の方に、アドラー心理学の『課題の分離』についていくつか書いた。

誰かの役に立つと信じているので置いておく。

blue-cactus.hatenablog.com

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意見を言わない/言えない人には
様々な理由があると思う。

グループに属している。

守りたい家族がいる。

上司の顔色を伺わないとキャリアに響く。

友達に嫌われたくない。

恋人や伴侶がバカにする。

そもそも言い方、書き方がわからない。


以上をまとめると結局のところ
「誰か」の目線を気にし過ぎではないか。


日本では意見を言わせない教育がまかり通っているから、他人の目線や意見が気になり、自分で考えることをやめて、周りの意見に合わせていれば正解としている人が多い。

「空気を読め」とも言われる。

ただそれでは、ほとんど中世や戦前と変わらない。


「誰か」が言ったからではなく、
「自分自身で」問題意識をもって
「自分の言葉で」意見を言うことが大事。

かっこつける必要はない。
誰かに褒められる必要もない。

人から褒められることを目的とすると
「承認欲求」を満たすことに躍起になってしまう。

それでは他人からどう思われているかを優先していることになり、自分の人生を生きていない。

ただ純粋にシンプルに、
思っていることを発言する。
(差別、ヘイトは論外)

なぜそう思うかについても考える。

対話を通して考えを深める。


「自分のために、社会のためにどうすればよいか?」

を踏まえて発信すれば、より良いだろう。



自分の人生を歩むには
最終的にはひとりで選択し、
ひとりで決定していかないといけない。


親が言ったから。
先生が言ったから。
上司が言ったから。
トップが言ったから。
友達が言ったから。
恋人が言ったから。
夫や妻が言ったから。
政府が言ったから。

では「誰か」の意見に常に左右されてしまう。
「自分」の意見を持っていないことになる。


その「誰か」の意見をそっくりそのまま鵜呑みにした人は、失敗すればその「誰か」のせいにするのだろう。

いつだって他人任せだ。


そうではなくて
グループから抜けて
ひとりになって
自分の言葉で発言をする。


そしてものごとが少しでも前進するように
知恵を出す。

そうすると、他の場所から自然と仲間が集まる。

すぐにではなくても理解者は現れる。


古い価値観を捨て、
新しく創造する。


一人ひとりには
本当はそれをする能力も、権利もある。


ひとりの発言と行動が
周りの意識を変え、
世の中を変えることもできる。


目を覚まし、
現実から目を逸らさず
自分の意見を自分の言葉で発言すること。

ひとりであったとしても、行動すること。



そうすれば
本物の表現者になれる。


表現者には別にアーティスティックな才能がなくたって良い。

自分の言葉で自分の意見を発信すれば、
誰だって表現者になれる。


自分を表現するのは自分自身だけだ。


日本には美しいもの、かわいいもの、楽しいもの「だけ」が表現、作品と勘違いしている芸術家も表現者も多い。

自分の意見を持たない人の歌う歌がどんなに上手かったとしても、真のメッセージは観客に伝わらない。

どんなに美しい作品を作っても
見る人の心を本当の意味で掴めない。

上辺だけで楽しんでいる。

残念ながら、見る人にはわかってしまう。

社会とリンクしていない作品や存在は絵空事
どこか虚しい。



Art is to say.

アートとは発言すること。


少しだけ勇気を出せば
誰にでも簡単にすぐできる。

出会いと別れ

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4月10日。

住んでいるアグリツーリズモ(農家のBnB)の敷地内にある隣のアパートを自分のために借りて、引っ越した。

アパートと言っても普段は旅行者用の宿。


引っ越した理由は、
イギリス人夫と別居をしたかったから。

私たちの結婚生活はこれまでも危うく、それでも良い面もあり、波がある状態でなんとか続けてきた。

しかしコロナでロックダウン中に決定的なことが起こり、私の方から別居したい旨を告げた。


様々な要因があるが、
自分が忘れないためにここに書いておこう。

1. なんやかんや男尊女卑。
2. 介入と束縛。
3. 自分のための空間がない。
4. 相談のない決定が多い。
5. 意見を言っても文句と捉えられる。
 つまり、話を聞いていない。
 ゆえに何度も説明をする必要があり苛立つ。
6. 人が怒っているときに
「犬が吠えているみたいだ」と言って笑う。
 なぜ怒っているかに目を向けず、取り合わない。
7. 私を守ろうと彼が動くことが裏目に出る。
例: 食料品を溜め込むために毎日スーパーに行く。
 私はスーパーの従業員に迷惑をかけてほしくなくて"買い物は週に一度にして"と頼んだが、物流が止まることを危惧し、毎日買い物に行くことをやめなかった。
それで、「毎日買い物に行くあんたが家にコロナを持ってくるでしょ!」とキレた。
8. 自分の能力を使い、やるべきことをやっていない。故に尊敬できないし一緒にいても楽しくない。
9. 私は優しさよりも尊敬を重視するタイプ。
10. 彼好みの女性像があり、それを押し付けてくる(長い髪、化粧をきちんとするなど)。


別居することでひとりの空間と自由を手に入れた。

それだけで満足だった。



まずひとりになって思ったことは、
雑音がない。


自分の好きな音楽をイヤフォンしてコソコソと聴く必要もない。

日本語の曲だって、流すことができる。

いちいち干渉されないのが良い。

人は誰もが「好き」だったり「得意なこと」がある。
それを隠さずに生きていくほうが、絶対に幸せなんだ。


それを今気づけたのは、これからの人生を考えたときに良かった。


これからといえば、
イタリアの全土ロックダウンから今日で約2ヶ月がたった。

あっという間な気もするし、
濃かったとも言える。


私はもう、2ヶ月前の自分とは別人になった。
別人になったと思ったのは、ロックダウンが始まり、2週間経った頃だ。

ちょうど日本に警鐘を鳴らし始めた時期だった。


たった1-2ヶ月の間に、別れた人もいれば、新しく出会った人も大勢いる。

その出会いと別れは必然だったのだろう。



この間に学んだことが山ほどある。

まず今まで仕事にかまけて見ていなかったことがたくさんあることに気がついた。

例えば、自然と向き合うことをしてこなかった。

コロナを通じて初めて農家は最強だとわかった。
自分で小さな家庭菜園を始めたりもした。

ロックダウン直前に引っ越してきた庭師も小さな畑を耕してくれている。

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今はスーパーに行く回数を減らしているので、必然的にあるものでやりくりをする。
自分で作れるものは、自分で作ろうと決めた。

運が良いことに、たまたま田舎暮らしの私。

ロックダウン中に自然の中に無料で美味しく食べられる草花、果物がたくさんあることに気がついた。

今までは気にも止めず、食べられることさえ知らず、ただ通り過ぎていた。

最近はアカシアが食べられることを知った。
フリッターやお好み焼きにして食べた。

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セージも庭にたくさん生えているので毎日のようにスパゲティに入れたりフリッターにして食べている。

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いちじくの葉茶を去年作った。
今も毎晩飲んでいる。

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レモンを大家さんにたくさんもらい、レモネードや塩レモンを作った。

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サンブーコ(エルダーフラワー)でスプマンテ作りにも挑戦中。

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散歩ついでにカモミールを見つけた。
お茶にした。

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毎日が発見の連続。

すごいことだ。


隣に住まいを移しただけで
ひとりになっただけで
見える世界が変わった。

パラダイス度が増した。


今は庭で鳥のさえずりを聞きながら
ご飯を食べる。

昼間は日光浴をし、
夜は月光浴をしている。

風が強く雨が降るときは家でのんびりする。

毎日日本のニュースを追い、
自分の意見を言うこともきちんとする。

発言は、自分にとっても社会にとっても絶対に良い。何より楽しい。


そしてほとんどの時間を、
家か自然の中で過ごす。

楽しみながらゆるりと新しいことに挑戦する。


今はただひたすらに贅沢な時間が流れている。


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